2024年10月19日
はじめに
今年8月26日に中国軍の情報収集機が長崎県男女群島沖の日本領空を2分ほど侵犯した。[1] 中国軍機による領空侵犯はこの時が初めてだった。[2] 政治もメディアも大きく反応したので、読者の記憶にも新しいことだろう。しかし、それに比べれば、今年7月4日に海上自衛隊の護衛艦「すずつき」が浙江省沖の中国領海に初めて〈侵入〉していたことはあまり知られていない。[3]
自衛隊が創設以降初めて他国の領海に侵入したことは、物凄い一大事であるはず。それなのに、政治もマスコミも国民も、この「静けさ」は何なのであろう? AVP本号では、「すずつき」による中国領海侵入を取り上げ、事案発生後の政府の対応がシビリアン・コントロールを含めた自衛隊の統制上、極めて深刻な問題を孕んでいると論じる。
【護衛艦「すずつき」】
何が起こったのか?~報道に見る顛末
まず、マスコミ報道や中国側の公式発言、さらには私が先月中国訪問時に中国軍関係者から聞いた話を加味して〈何が起こったのか〉をまとめておこう。[4]
【時間と場所】
2024年7月4日早朝、佐世保を母港とする海上自衛隊の護衛艦「すずつき」(乗員約200名)が、中国浙江省(下記地図の赤い部分[5])沖の領海に侵入し、約20分間にわたって航行を続けた。領海は12カイリ(約22㎞)なので中国本土から至近距離と言ってよい。(参考までに、佐渡島と本州の最短距離は約32㎞。)当時、中国軍は浙江省沖で実弾射撃演習を行っていたため、「すずつき」はこれを監視する任務を帯びていたと考えられている。
本事案をマスコミが嗅ぎつけたのは、7月10日のことのようだ。翌11日、定例会見で事実確認を求められた中国外務省は「日本の艦艇の違法かつ不適切な行動について厳正な抗議を行った」と述べ、これを認めた。[6]
【侵入した理由】
7月11日の会見で中国外務省は、日本側から「技術的なミス」だったと説明を受けた、と述べた。最終的には、日本政府は中国側に「艦長が正確な位置を把握せず誤って領海侵入した」と伝達したらしい。産経新聞によれば、「すずつき」が中国領海に入ったことに気付いた海自基地が問い合わせたところ、艦長は『入ってはいけない地点まで進んでいるとは分からなかった』と応答した」とのことである。
【処分】
海自は7月にも「重大なミスがあった」ことを理由に艦長(=5月に着任したばかりだった)を事実上更迭した。乗員の処分も検討されている模様だ。なお、本事案については、国家安全保障局が中心となって調査報告書をまとめた、と言われる。ただし、これも「部隊運用に関わる」ことから非公表の扱いである。
日本政府は何と言っているのか?
前節で見たのは、マスコミ報道等による事案のあらましであった。一方で、日本政府は「すずつき」の中国領海侵入について、公式には「あったこと」さえ認めていない。
〈7月の対応〉
「すずつき」の領海侵入は7月4日に起きた。前述のとおり、マスコミは7月10日にそのことを知り、7月11日以降、日本政府に確認を求めている。マスコミが嗅ぎつけていなければ、政府は本事案をまったく表沙汰にしないつもりだったと思われる。
結局、7月11日に林芳正官房長官、7月12日に木原稔防衛大臣が定例会見でこの件に触れた。何れも同じ文面を読み上げたものと見え、発言内容は同じだ。[7] 以下は木原会見の様子である。
Q:中国外務省の副報道局長が(7月)11日の記者会見で、海自護衛艦「すずつき」が中国の領海に一時侵入していたと発表しました。日本側は技術的なミスだったと中国側に説明しているとのことですが、事実関係や防衛省・自衛隊内で調査を進めているか教えてください。
木原: 防衛省・自衛隊は、平素から、我が国周辺海空域において警戒監視活動をはじめとした様々な活動を行っているところですが、お尋ねの内容については、自衛隊の正に運用に関する事柄でありますので、お答えは差し控えさせていただきます。
領海侵入が事実でなければ、否定するはず。だから、見る人が見れば、「あぁ、これはやったんだな」とわかる。しかし、国民に対する説明としては、〈ダンマリを決め込んだ〉形となっている。
〈9月の対応〉
その後、9月になってマスコミの一部(おそらく共同通信が最初)が、7月の領海侵入を受けて「すずつき」の艦長が更迭されたことを報じた。これを受け、本事案は再び(わずかながらも)注目を浴びる。以下は9月24日の木原会見だ。[8]
Q:海上自衛隊の護衛艦「すずつき」の件で一部報道がございましたので、この「すずつき」が7月に中国領海を一時航行したことについて、艦長がですね、正確な位置を把握せず誤って領海侵入したとして、海自が艦長を更迭し、乗組員の処分も検討しているという報道が一部ございます。事実関係の詳細と中国政府への対応状況についてお願いします。また、この件の再発防止への取組についてもお聞かせください。
木原:まず7月にですね、「すずつき」の艦長が交代をしているというのは事実であります。海上自衛隊に限らずですね、陸・海・空自衛隊というのは、様々なタイミングで人事異動しておりますので、しかし、その都度、個別の異動理由について申し上げておりません。今回も申し上げることはございません。平素から、我が国周辺海空域においては警戒監視活動をはじめとした様々な行動を行っているところであり、自衛隊の運用に関する事柄、正に、その領海を一時航行したという点というのは、それは当てはまります。お尋ねの内容についてはですね、この点もお答えすることは差し控えます。
この木原の発言は意味が取りにくい。一聴、「すずつき」の領海侵入を無自覚に認めたように聞こえなくもない。だが、それでは7月の発言との間に齟齬が出るし、発言の後段と繋がらない。木原が言いたいのは、「領海を一時航行したか否かを含めて、その行動は〈運用に関する事柄〉に当てはまるため、一切答えません」ということである。
安全保障上の危険
政府は本事案にノー・コメントを貫き、マスコミもあっさり引き下がった。しかし、それを以て「護衛艦の中国領海侵入は大したことではなかった」と考えるのは、大きな心得違いである。
〈不測の事態〉
私が中国側から聞いた話では、中国の艦船も「すずつき」の行動をマークしており、同艦に対して警告を発するとともに領海から出るよう要求したと言う。ところが、「すずつき」は返答もせずに航行を続けたため、中国側は「すずつき」の意図を測りかねて相当混乱したらしい。中国側が過剰反応していれば、不測の事態を招いて乗員の生命を危険にさらしたかもしれない。おそらく、「すずつき」も中国側も単独で行動していたわけではあるまい。最悪の場合、偶発的な衝突がエスカレートする可能性もゼロではなかった。
〈国際法の議論〉
マスコミ報道では、「すずつき」の航行について「国際法違反に当たらない可能性が高い」という論調が見られた。だが、この議論は〈身びいき〉の側面が強い。確かに国際法には「無害通航権」が定められており、軍艦を含め、すべての国の船舶は、〈沿岸国の平和や秩序、安全を害しない限り、〉原則として他国の領海を継続的かつ迅速に通航することができる。しかし、防衛省のHPを読むと、「(国連海洋法条約は)軍事情報の収集や軍事訓練、さらには漁獲活動や測量活動も『無害通航』とは認めていません」と明記されている。[9] つまり、「すずつき」が軍事情報の収集に当たっていたのであれば、無害通航権は認められない可能性が高い。
自衛隊の統制問題
本事案は安全保障のど真ん中に関わることだけに、何もかも情報開示すべきでない。それは私にもよく理解できる。だが、本事案の重大性に鑑みた時、政府の情報開示が事実上ゼロと言うのは、どうにも気持ちが悪い。特に、「すずつき」が中国領海に侵入した原因については、シビリアン・コントロールの根幹に関わる問題を孕んでいる。
〈技術的なミスだった?〉
「すずつき」が中国領海に侵入した原因は「技術的なミスだった」とされている。前述のとおり、「すずつき」が中国領海に入ったことに気付いた海自基地が問い合わせると、艦長は『入ってはいけない地点まで進んでいるとは分からなかった』と応答したとのことだ。遠方の海自基地で領海侵入を把握していたにもかかわらず、「すずつき」自身が気づかないということがどうやったら起きるのか、俄かには想像がつかない。艦長の指示に問題があったのか、乗員がミスを重ねたのか、あるいは機械的なトラブルがあったのか? 政府は公式にはノー・コメントを通し、何も説明していないため、曖昧さがいや増す。
技術的なミスが原因だったとして、自衛艦が他国の領海へ20分間も侵入し、相手方艦船との間で意思疎通も不十分だったとすれば、海自の能力に大きな疑問符が付く話だ。都合の悪いことを隠蔽するようでは、自衛隊に対する信頼は長い目で見て却って低下する。
〈意図的に侵入した?〉
軍隊の行動は基本的には命令による。軍事の世界では、行動の背後には何らかの意図が働いていると見るのが常識的な思考だ。自衛隊は戦後長らく〈戦わない軍隊〉と言われてきた。だが最近は、防衛力の増強や敵基地攻撃能力の保有等によって、国際的にも「自衛隊は変わった」と思われている。しかも、政府は本事案について公式には確認も否定もしていない。中国側に限らず、「領海侵入は意図的なものだったのではないか?」という疑念が湧くのは自然なことであろう。[10] 私も、7月段階ではそんな疑問が頭をかすめた。
その場合、「意図した者は誰か?」という次の疑問が生まれる。艦長なのか、乗組員なのか? 両者が共謀したのか? 海上幕僚長、統合幕僚長も噛んでいるのか? 防衛大臣や総理大臣は領海侵入を事前に了承していたのか? 誰かの独断であれば、自衛隊内部の指揮命令系統が無視されたことになる。政治の了解が得られていない場合は、シビリアン・コントロールの重大な干犯に当たる。逆に、大臣クラスが了解していたのであれば、政府が軍事的に火遊びを行ったことになる。大袈裟ではなく、内閣総辞職ものと言ってよい。
最低限の説明責任は果たせ
前節で述べたストーリーはあくまで思考実験の一環である。私は今回の「すずつき」の領海侵入が意図的に起きたものだと真剣に疑っているわけではない。だが、「自衛隊がそんなことをやるわけがない」とか「日本政府がそんな冒険主義に打って出るはずがない」と考えることは、近代国家として軍事を制御する仕組みを放棄するに等しい。ましてや、「自衛隊は国防のために頑張ってくれているのだから、彼らを疑うようなことはすべきでない」などという発想は論外である。
軍事専門家の中には、「自衛隊の行動をつぶさに情報開示すれば、こちらの手の内を相手にさらすことになる。だから、ノー・コメントでよい」という意見の人もいる。確かに、〈つぶさに〉情報開示すれば、その通り。しかし、それを拡大解釈してノー・コメントを正当化するのはまた別の話である。
護衛艦「すずつき」が中国領海に侵入したことや艦長が更迭されたことは、マスコミ報道によって周知の事実となっている。そのことを政府が認めでも、〈手の内をさらす〉ことにはならない。自衛隊が中国領海のすぐ近くで様々な活動を行っていることも、中国軍にとっては常識であり、機密でも何でもない。
政府が公式に最低限の事実関係を認め、政府部内でどのような調査を行ったかを説明し、大まかな原因や再発防止策、関係者の処分状況等を公表したとしても、日本の安全保障を害することはない。逆に、政府が適切な説明責任を果たすことは、日本のシビリアン・コントロールの健全さを内外に示し、自衛隊の健全な発展を促すはずだ。
防衛省・自衛隊には、不祥事が起こると「特別防衛監察」が実施され、報告書が公表される、というチェック・システムがある。[11] 最近の例は、海上自衛隊と防衛産業との癒着事案(2024年)や、陸自隊員だった五ノ井里奈さんに対する強制わいせつに端を発したハラスメント事案(2022年)など。2017年には、南スーダンPKOの日報(2004~2006年作成分)が恣意的に不開示・破棄された事案について特別防衛監察が入った。[12] この時は、監察が行われた後、稲田朋美防衛大臣をはじめ、事務次官や陸上幕僚長が辞任している。
今回の領海侵入事案では、政府がその事実を認めていないため、特別防衛監察を実施するという選択肢は論理的になかった。だから、国家安全保障局による調査でお茶を濁したのかもしれない。あるいは、特別防衛監察にすれば報告の公表が前提となるため、それを嫌った、という穿った見方もできなくはない。私は、部隊の運用上の問題であっても、法的な位置づけの明確な特別防衛監察で対応することを基本とし、安全保障上差支えのない範囲で報告の概要を公表することが望ましいと考える。[13] もちろん、政府は「自衛隊の運用に関わることだから、事実関係の有無を含めてコメントしない」という態度を取らないことが前提だ。[14]
おわりに
今回、林官房長官や木原防衛大臣が「自衛隊の運用に関する事柄なので、答えない」と言うのを聞くたびに、1928年6月に起きた張作霖爆殺事件のことが頭をよぎった。
1928年6月4日、関東軍の河本大作大佐等は本国に独断で奉天軍閥の総帥だった張作霖を列車もろとも暗殺した。田中義一首相らは関東軍の仕業と知りつつ、陸軍からの圧力で厳正な処罰に踏み切れず。昭和天皇の怒りを買った田中は内閣総辞職に追い込まれる。この事件は当時、「満州某重大事件」と呼ばれ、国民が事の真相を知ったのは終戦後であった。
今回の領海侵入事案が張作霖爆殺事件に匹敵すると言うつもりはない。しかし、仮に技術的なミスであっても、自衛隊にミスがあったことを国民に対して認めないことが前例になったら危うい。そんなことになれば、自衛隊はミスを犯してもそれを認めないことが当たり前だと思うようになるだろう。そして、自衛隊の中でシビリアン・コントロールを軽視する空気が醸成されないとも限らない。アリの一穴、と言うではないか。「部隊運用」を錦の御旗にして国民への説明責任を全面的に免除するなど、認めてはならない。
戦後、自衛隊に対する国民の評価と期待が今日ほど高まっている時代はない。しかし、政府・マスコミ・国民が自衛隊に忖度したら、シビリアン・コントロールを含む自衛隊の統制は有名無実化してしまい、再び国を誤る。我々は、自衛隊に対してリスペクトと厳しさの両方を持って接するよう心がけたい。[15]
[1] 防衛省・自衛隊:中国機による領空侵犯について (mod.go.jp)
[2] 中国機は2012年12月13日にも尖閣諸島上空で領空侵犯しているが、これは国家海洋局所属の航空機だった。なお、中国機が領空には入らず、自衛隊がスクランブルした回数は2023年度で479回に及んだ。中国軍機が領空侵犯「極めて重大」 活動エスカレート、NATO牽制の意図も – 産経ニュース (sankei.com)
[3] 新聞・テレビの中には「中国領海を航行」「中国領海への誤侵入」という言い方をするところもある。また、護衛艦「すずつき」の写真は、防衛省・自衛隊ホームページ, CC 表示 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=56808193による。
[4] 海自護衛艦が中国領海を航行 日本に「深刻な懸念」伝達 | 共同通信 (nordot.app)
中国領海への誤侵入、艦長更迭 海自艦、位置把握せず | 共同通信 (nordot.app)
海自の護衛艦 一時 中国領海を航行 防衛省がいきさつを調査 | NHK | 防衛省・自衛隊
海上自衛隊の護衛艦すずつき、中国領海に一時侵入 「技術的ミス」と釈明 – 日本経済新聞 (nikkei.com)
海自護衛艦「すずつき」艦長が7月で交代 中国領海を一時航行、事実上更迭か – 産経ニュース (sankei.com)
[5] Joowwww – self-made; based on CIA public domain maps:http://www.lib.utexas.edu/maps/middle_east_and_asia/china_admin_91.jpghttp://www.lib.utexas.edu/maps/middle_east_and_asia/china_pol96.jpghttp://www.lib.utexas.edu/maps/middle_east_and_asia/china_india_e_border_88.jpghttp://www.lib.utexas.edu/maps/middle_east_and_asia/china_indiaw_border_88.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4046371による
[6] 海自艦船が中国領海を航行か 中国外務省が日本側に徹底調査申し入れ:朝日新聞デジタル (asahi.com)
[7] 令和6年7月11日(木)午前 | 官房長官記者会見 | 首相官邸ホームページ (kantei.go.jp)
防衛省・自衛隊:防衛大臣記者会見|令和6年7月12日(金)10:36~11:28 (mod.go.jp)
[8] 防衛省・自衛隊:防衛大臣記者会見|令和6年9月24日(火)10:58-11:33 (mod.go.jp)
[9] 防衛省・自衛隊|平成26年版防衛白書|コラム|<Q&A>海洋にかかる国際ルールについて (mod.go.jp)
[10] 中国による8月26日の領空侵犯について、中国側は「領空侵犯の意図はない」と釈明しているにもかかわらず、日本では「日本側の対応を試すためにやったものだ」という推理が盛んに言われている。「すずつき」の領海侵入について中国側が「意図的なものだった」と考えたとしても、何ら不思議はない。
[11] 防衛監察:防衛省 防衛監察本部 (mod.go.jp)
[12] special04_report.pdf (mod.go.jp)
[13] 報告書の中で公開できる部分を「概要」として公表し、報告書そのものは「特定秘密」に指定すればよい。
[14] 安全保障上、どうしても政府が事実確認すべきでないような事態も今後は起こり得る。そのような場合に備えて特別なチェック体制を事前に構築しておくことは否定しない。
[15] 参考:NIDS2n3P053_092.indd (mod.go.jp)