東アジア共同体研究所

戦後日本の国家戦略を振り返る ~ 国家安全保障戦略に見る軍事最優先の本末転倒① Alternative Viewpoint 第57号

2023年12月26日

 

はじめに 

2022年12月16日、岸田文雄内閣は国家安全保障戦略(National Security Strategy of Japan、以下NSS2022と略記)、国家防衛戦略防衛力整備計画から成る安保3文書を閣議決定した。[1]

あれから1年。安保法制の時のような国民的大論争が起きるでもなく、NSS2022は淡々と既成事実化が進んでいるように見える。それでよいのか? NSS2022を大戦略(=経済・安全保障・外交等を含む、総合的かつ最上位の国家戦略[Grand Strategy])との関連で検討してみると、この1年間あまり議論されていない普遍的かつ根源的な問題が浮かび上がってくる。[2]

本来なら、国家安全保障戦略は〈大戦略〉を組み立てたうえで決めるのがあるべき姿だ。しかし、岸田内閣は総合的な大戦略の制定に先立って国家安全保障戦略(NSS2022)等を定め将来にわたって膨大な予算を割り振ることを決めた。これは事実上、戦後日本の国家戦略史上初めて安全保障を経済に優越させたことを意味する。政府もメディアもこぞって「日本は戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に直面している」と脅しまくるものだから、我々も「それでいいじゃないか」と思いがちだ。[3] でも冷静に考えてみれば、日本の将来にとって最も深刻な問題は〈経済が今後も停滞し続ける〉ことである。経済の再生なくしては、どんなに勇ましい安全保障戦略も画餅となるだろう。

AVP本号と次号で展開するのは、上記の問題意識に基づいた議論である。本号(第57号)では先ず、〈戦後日本の国家戦略の変遷〉を振り返る。続く次号(第58号)では、日本の大戦略とNSS2022の関係と問題点を解説しよう。

分析の前提 

戦後日本の国家戦略を振り返る場合、突き当たるのは「ある時代の戦略は、何を見ればわかるのか?」という問題である。日本の場合、総合的な大戦略が一目でわかるような公的文書は作成されていない。[4] 経済・財政面の戦略は「骨太の方針(経済財政運営と改革の基本方針)」に記載されるのが建前である。だが、この文書も近年はマンネリ化と形骸化が目立っている。現在、外交安全保障面に関する最上位の文書は「国家安全保障戦略」である。ただし、安倍内閣で作成された2013年版は、政治的・外交的な配慮が働いたせいか、安倍の本音をストレートに反映した内容にはなっていない。

結局、ある時代の日本政府の戦略を把握しようと思えば、政治指導者の言葉各種政策文書の文言から読み解く作業が入って来ざるを得ない。本稿で紹介する各時代の戦略も、私流の解釈に基づいて整理したものとなる。

 

独立回復~1960年代:吉田ドクトリン

1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復した。その頃から1960年代くらいまでの日本の国家戦略は「経済中心主義、軽武装、日米安保」を柱にしていた、というのが定説だ。[5] 1947年から54年にかけて5次にわたって総理大臣を務めた吉田茂にちなみ、「吉田ドクトリン」とも呼ばれている。

当時、国土は戦争で疲弊・荒廃していた。1945年の鉱工業生産は10年前の1割にも満たず。[6] 1945年から49年の間で卸売物価は約70倍に上昇。[7] 大戦略の観点からは、国家運営の最優先課題は経済復興であり、「軽武装」と「日米安保」は「経済中心」の帰結と言えた。限られた予算を経済復興へ集中的に投入しようと思えば、重武装という選択肢は取り得ない。しかも、戦力の不保持を謳った憲法の下で無理して自衛隊を発足させたため、「自衛のための必要最小限」という制約は免れなかった。そして、軽武装で日本を守るためには、米国による庇護(=日米安保条約)が必要だった。

以上は日本政府の積極的選択を強調した見方だが、吉田ドクトリンを米国の外交安全保障戦略の投影とみなす見方もある。日本の独立は日米安全保障条約(旧条約)の締結とセットだった。[8] 吉田ドクトリンの「日米安保」は、単に防衛面で米国を頼るというだけでなく、内政面でも外交面でも日本が米国の意向を重視するということを意味した。「軽武装」路線はポツダム宣言による武装解除の延長線上にあった。日本が早期に経済復興を成し遂げることも〈日本を共産陣営に走らせない〉という点で米国の戦略的利害に合致した。当時の日本の政権が吉田ドクトリン以外の戦略を採っていれば、米国に潰されていたに違いない。

いずれにせよ、朝鮮戦争特需にも助けられて日本は急速に戦後復興を成し遂げた。米ソ対立の激化にもかかわらず、日本が直接戦火に見舞われることもなかった吉田ドクトリンは国家戦略として大成功だったという評価が一般的である。

 

1970~80年代:吉田路線の変質+日中友好 

〈復興後の経済戦略と対米配慮〉

戦後の日本は年率10%前後で経済成長を続け、1960年代後半には西側で第2位の経済大国になった。[9] 一方で、米国はベトナム戦争の泥沼化等から貿易・財政面で「双子の赤字」に苦しみ、西側陣営の国々に自助努力の拡大要求を強める。経済面での対日圧力は「貿易摩擦」の形を取り、繊維から自動車、半導体へと輸入制限措置の対象が拡大された。経済・防衛の両面で対米依存の大きかった日本は米国に表立って逆らわず輸出自主規制と対米投資増を繰り返した。大戦略として見れば、この時期の日本はまだ「経済中心」だったかもしれない。だが同時に「日米安保(米国重視)」の影響も大きく受け、その中身は〈米国の圧力をやり過ごす〉ことに力点が置かれた。[10]

米国は容赦がなかった。急増する貿易赤字を減らすため、米国はプラザ合意(1985年)等を通じて急激なドル安誘導を図る。「円高不況」対策のみならず「内需拡大」という国際(対米)公約を達成するため、政府・日銀は大規模な金融緩和と公共投資拡大を続けた。その結果が、バブルの発生・狂乱・崩壊という痛恨事であった。「双子の赤字解消のためなら日本叩きも厭わない」という米国の国家戦略の前に、高度成長期の惰性と対米配慮にどっぷり浸かった日本の国家戦略が敗れ去ったという見方もできる。

〈軽武装の建前と実態〉

米国の要求は軍事面にも及んだ。政府は「日米安保」という国家戦略の基軸に沿って防衛費を増額し、海上自衛隊に3海峡(宗谷・津軽・対馬)封鎖能力を持たせた。つまり、日本は間接的に米国の対ソ軍事戦略の一翼を担うようになったのである。1972年に8,002億円だった防衛関係費は1989年には3兆9,198億円に達した。[11] しかし、1976年に政府が防衛費の上限として「GNP比1%枠」方針を表明したこともあり、この時期も「軽武装」路線が継続されたと受け止める人が少なくない。[12] 高度成長が続けば、GNP比は低く抑えても防衛費は十分に増やせる。簡単なトリックであった。

〈日中友好の登場〉

この時期、日本の国家戦略に新たな柱として「日中友好」が加わった。ただし、これは1971年7月のキッシンジャー訪中や72年2月のニクソン訪中で示された米戦略の大転換(=「米国対ソ中」から「米中対ソ連」への戦略枠組みの変更)への対応という側面が大きい。[13] その意味で、「日中友好」は「日米安保」という既存の戦略要素と矛盾するものではなかった。

 

1990~2010年頃:経済迷走、日米安保の再定義、対中「戦略的互恵」 

〈経済漂流と経済戦略の迷走〉

1990年代になるとバブルが崩壊し、日本経済は長期的停滞に喘ぎ始めた。日本経済が米国にとって脅威と呼べる代物でなくなると、日米経済摩擦は自然消滅する。この間、日本は官民をあげてバブルの後始末に追われた。[14] ただし、1998年に長期信用銀行が国有化される前までの政府の対応は場当たり的で、バブル崩壊を国家的危機と位置付ける戦略的な意識は薄かった。[15] バブル崩壊に隠れて〈生産性の鈍化〉と〈少子高齢化〉も進行した結果、不良債権問題が一息ついた後も日本経済が浮上することはなかった。歴代内閣は「総合景気対策」や「成長戦略」を次々に策定した。しかし、公共投資の拡大による〈一時しのぎ〉はできても、上記2つの根本問題への取り組みはなおざりにされた。[16] 小泉純一郎の郵政民営化も世の中を熱狂させただけで〈時代の仇花〉に終わる。[17] この頃から日本は、国家戦略と呼ぶに値する経済戦略はもちろん、その前提となる危機意識さえ持てなくなった。

〈国連を通じた国際貢献→日米安保の再定義〉

米ソ冷戦の終結という戦略環境の一大変化を受け、日本の防衛戦略にも見直しの機運が生まれた。焦点になったのは、〈日本の安全保障の軸足をどこに置くか〉と〈自衛隊の域外活動をどうするか〉である。

1990年代前半に政権を担った細川・羽田・村山内閣では「国際連合」、「多国間安全保障」、「協調的安全保障」に対する関心が高まった。(ただし、それは日米安保を否定するものはなかった。)1991年に起きた湾岸戦争の際、海部俊樹内閣は130億ドル(約1兆8千億円)の資金拠出を行ったが、自衛隊は派遣しなかったために「小切手外交」と批判される。[18] これがトラウマとなり、日本は自衛隊による「国際貢献」を重視するようになった。宮沢内閣は1992年に国際平和協力法を成立させ、国連PKOへの自衛隊派遣を始めた。

しかし、日本の「米国離れ」を警戒した米国は巻き返しに出る。折しも北朝鮮が核・ミサイル開発を進め、日本側も危機感を強めた。日米は朝鮮半島有事における自衛隊の役割を議論し、1996年4月の日米安全保障共同宣言米軍兵力の維持自衛隊による米軍支援拡大の方向性を確認した。これは事実上、日本が冷戦後も〈日米安保(日米同盟)〉を日本の外交安全保障戦略の中心に据え続けるという宣言だった。所謂「日米安保の再定義」である。日本は軍事的役割を拡大させ、日本有事以外の「周辺事態」でも自衛隊が米軍に後方支援できるようにした。[19] 2001年にアフガン戦争、2003年にイラク戦争が起きると、日本は自衛隊をインド洋での対米給油支援イラクでの戦後処理活動に派遣し、米国の外交安全保障政策に協力する。[20] それと反比例して、国連PKOへの自衛隊派遣は顕著に減少した。[21] 日本の安全保障戦略の中で〈国連重視と自衛隊のPKO派遣〉は〈日米同盟強化と自衛隊による対米協力〉に道を譲った

防衛予算のGDP比はこの時期も1%近辺で推移した。ただし、日本経済の停滞が続いたため、防衛費も5兆円を天井にして頭打ち/微減傾向を見せる。ストックホルム国際平和研究所によれば、2001年に日中の軍事支出(米ドル換算)は逆転した。[22] しかし、当時の日本の政治中枢がそのことを深刻に捉えていたようには見えない。

〈日中友好から戦略的互恵へ〉

冷戦後もしばらくの間、政府は「日中友好」の基本線を維持した。1989年に天安門事件が起きると、日本は中国の孤立回避を模索し、対中制裁に積極的な欧米諸国と一線を画した。[23] この時期、中国経済は改革開放路線によって高度成長を続け、日本経済にとって不可欠の存在となった。一方で、1990年代後半になると台湾問題靖国問題等で日中関係は緊張を孕み始める。21世紀に入っても中国経済は成長を続け、停滞から抜け出せない日本経済を猛烈に追い上げた。それに伴い、日本国民の間にあった「(先進国であり、侵略した側の)日本が(発展途上国であり、侵略された側の)中国を助ける」という感情は徐々に薄れた。2006年9月、安倍政権は「戦略的互恵関係」という戦略概念を打ち出す。[24] 中国に対して「是々非々」の姿勢を強めつつ、同時に経済や気候変動等の分野で実利的関係と協力を追求することを企図したものであった。

 

2010年代以降:経済迷走、軍事増強、日米同盟、中国包囲

※ 2020年から22年初め頃までの間、日本にとっては新型コロナへの対応が喫緊の国家的最優先課題だった。しかし、それに触れると国家戦略変遷の〈流れ〉が追いにくくなるため、本稿では敢えて無視する。また、民主党政権期の国家戦略についても紙幅の関係から割愛した。

〈経済戦略の漂流継続〉

2012年末、安倍総理の下で自民党政権が復活した。安倍が経済戦略の目標としたのは「デフレからの脱却」である。しかし、ジャブジャブ金融緩和大規模財政出動の一方で、経済の生産性を上げるための成長戦略(規制・制度改革)は生ぬるく人口減少対策にも無関心だった。安倍内閣7年半の経済成長は年率1%程度にとどまり、デフレからの脱却にも程遠かった。日銀は超低金利政策を続け、円安が進んだ。最近になり、「デフレからの脱却」はほぼ実現したように見える。ただし、それは日本経済が活性化した結果ではない。為替要因と海外資源高を主因とする〈悪いインフレ〉である。

〈2013国家安全保障戦略〉

2013年12月17日、安倍内閣は日本初となる国家安全保障戦略(以下、NSS2013)を閣議決定した。[25] これは「日本の国家戦略の中で外交安全保障政策を経済政策と同様に重視する」という安倍自身の宣言でもあった。ただし、今振り返ると、NSS2013の中身はその後の日本の外交安全政策の道筋を必ずしも明確に示してはいない。NSS2013が「脅威」として明記したのは、北朝鮮による核・ミサイル開発・テロ・大量破壊兵器の拡散の3つであり、中国とは協力を模索する方針が書かれていた。公明党への配慮もあってか、集団的自衛権容認の方針も極めてオブラートに包まれた書き方となっていた。[26]

〈軍事増強〉

長期政権となった安倍政権の下で、日本の国家戦略は一気に軍事色を強めた。軍事力強化の〈縦糸〉は安倍に代表される保守派の「戦後レジームの解体」という思想であり、〈横糸〉は「米国と組んで中国に対抗したいが、そのためには日本の軍事的役割を拡大する必要がある」という日米同盟強化論であった。

2015年9月、安倍内閣は安保法制(平和安全法制)を成立させる。これにより、朝鮮半島有事や台湾有事が起きた時、日本が攻撃されていなくても〈集団的自衛権の行使〉によって中国や北朝鮮と戦うことが法的にはっきり可能となった。

この時期、防衛予算は一貫して増加した。補正予算を入れた防衛費の総額10年で1兆円以上増え2021年度(菅義偉内閣)に6兆円を超える。補正後の防衛費のGDP比も1.24%に達した。[27]

自衛隊の態勢面では、民主党政権の時に決めた「南西シフト」が本格化する。中国の軍備近代化に対応するため、中距離ミサイルの配備も検討され始めた。2010年6月に自民党は「わが国自身による敵ミサイル基地攻撃能力の保有を検討すべき」という見解をまとめる。[28] その後、敵基地攻撃能力保有論は勢いを増していった。[29]

〈日米同盟強化〉

北朝鮮の核・ミサイル開発と中国の台頭に直面した日本は、対テロ戦争(中東方面)に向いていた米国の関心を東アジアへ引き戻そうと努める。[30] 民主党政権の後半以降、日本政府は米国政府に〈日米安保第5条が尖閣に適用されることの確認〉を繰り返し求めた。

安倍政権は米国製兵器の購入を急増させた。2010年に509億円だった有償援助(Foreign Military Sales)による米製兵器購入の契約額は、2015年には4,400億円を超え、2019年には6,869億円へと膨れた。[31]

中国を睨んだ日米同盟の強化は経済面にも及ぶようになる。経済面での米中対立はトランプ政権下で2017年頃から顕在化し、やがて情報通信(ファーウェイ関連)や先端半導体分野に及んだ。米国政府は日本にも中国企業とのハイテク取引を停止・制限するよう求め、日本政府も基本的にはこれに応じてきた。

〈中国への対抗〉

2010年の尖閣漁船衝突事件2012年の尖閣国有化に伴う緊張の激化を通じ、国民の間に「中国脅威論」が浸透した。[32] 2010年に中国のGDPは日本を抜いた。今日では、中国経済は日本経済の4倍の規模に達し、中国の軍事費は日本の5.5倍の水準にある。日中間では米中間よりも早く、「トゥキディデスの罠」に似た力学が働き始めたと考えてよい。

中国への警戒感を募らせた日本政府は、自らの軍事増強と日米同盟強化に加え、価値観を共有する同志国との連携を強めた。安倍は2016年に「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」構想を発表し、2017年頃からは日米豪印会合(QUAD)を再活性化させた。政府は公式には否定しているが、こうした動きの背後には「対中包囲網」づくりの意図がある。

興味深いことに、安倍内閣は対中戦略を表現する時に「戦略的互恵」という言葉を使い続けた。2014年11月、日中両国政府は「4項目の合意」に達し、途絶えていた首脳会談を再開させている。[33] ただし、双方ともこの合意内容を具体化させることはなかった。安倍政権の下でも「戦略的互恵」という戦略概念の空洞化は止まらなかった。

 

以上、戦後日本の国家戦略の変遷を概観した。次号では、(安全保障政策としてではなく)国家戦略としての視点から現行の国家安全保障戦略(NSS2022)を分析する。

 

 

[1] 国家安全保障戦略について | 内閣官房ホームページ (cas.go.jp)

[2] 具体的には、AVP第41号~第49号をご参照願いたい。» AVPカテゴリー » 外交防衛|一般財団法人 東アジア共同体研究所 (eaci.or.jp) 新NSSの批判を包括的にまとめたものは以下。» 「国防バカ」がつくる欠陥戦略~ウクライナ戦争に学ぶ日本の防衛力整備⑤   Alternative Viewpoint 第47号|一般財団法人 東アジア共同体研究所 (eaci.or.jp)

[3] この表現はNSS2022に記載されている情勢認識である。多くのメディアも、事実誤認を含め、同様の認識を拡散しまくっている。例えば、日本の安全保障環境はどう悪化しているのか NHK解説委員室

[4] 米国の場合も、「国家安全保障戦略」は外交安全保障に関する最上位の文書という位置付けである。ただし、オバマ政権の頃から、国家安全保障戦略は経済分野を含めた内政上の課題とその対処方針を記載することが珍しくなくなった。トランプ政権とバイデン政権においては、米国政府の国家戦略を最もまとまった形で示すのは国家安全保障戦略であると言ってもよい。

[5] 永井陽之介が述べた吉田ドクトリンの本質から引用した。戦争指導 (mod.go.jp)

[6] hyaku5_3_1_1.pdf (boj.or.jp)

[7] 02-J-35.pdf (保護) (boj.or.jp)

[8] サンフランシスコ講和条約と日米安保条約は署名日(1951年9月8日)も発効日(1952年4月28日)も同じである。

[9] 経済力の拡大に伴い、アジア地域の経済発展・民生安定や日本企業の市場開拓を支援するための道具として政府開発援助が使われ、ODA予算は右肩上がりで増えた。日本のODA予算は1997年にピークを迎え、1兆1,687億ドルに達した。この額は2023年度の約2倍に当たる。(ODA) ODA予算 | 外務省 (mofa.go.jp)

[10] 日本が米国の意向にはっきりと盾ついたのは、第1次オイルショック(1973~77年)の際にアラブ支持を打ち出した時くらいである。

[11] 戦後における防衛関係費の推移 (sangiin.go.jp)

[12] 「GNP1%枠」の方針は1986年に撤廃された。しかし、その後も防衛費が1%を大きく超えることはなく、下回ることの方が多かった。

[13] その後、1971年9月に日本は中華人民共和国を国家承認した。これは米中間の正式な国交正常化(1979年)よりも早い。

[14] この間、日本の金融機関は2000年代初頭までに不良債権処理に約100兆円(=GDPの2割)を費やした。平成―バブル崩壊の後始末とデフレ対策に追われた金融界 | nippon.com

[15] 長銀国有化を実現する法的スキーム(金融再生法)が当時野党であった民主党によって立案されたという事実が、政府の危機意識の低さを物語っている。

[16] 過去の成長戦略は多かれ少なかれ、金融緩和と財政出動で経済活動を下支えし、その間に規制改革等を行って生産性・競争力を引き上げる、という図式が基本である。しかし、どの政権も例外なく既得権を擁護したため、生産性向上は遅々として進まない。また、人口減少問題に抜本的対策が講じられたことも未だない。日本の経済政策(成長戦略)の問題点については、下記を参照。 » 「社会変革を通じた経済対策」はまだか?  Alternative Viewpoint 第56号|一般財団法人 東アジア共同体研究所 (eaci.or.jp)

[17] 小泉や竹中平蔵は「郵貯の340兆円を官から民へ流せば、経済が活性化する」と吹聴したが、彼らの行った「郵政民営化」は政府出資の持ち株会社化に過ぎなかった。仮に日本郵政を完全民営化して貸付業務等を自由に行わせていたとしても、金融収縮期日本経済全体への波及効果はごく限定的だったと考えられる。

[18] 湾岸戦争の停戦後に自衛隊は掃海艇を派遣した。

[19] 最初の日米防衛ガイドラインは1978年に制定され、今日まで1997年と2015年の2回にわたって改訂されている。

[20] インド洋やイラクへの自衛隊派遣は、周辺事態法ではなく、個別の特別措置法に基づいて行われた。しかし、遠隔地での対米支援という性格は一目瞭然である。

[21] 国連PKOへの自衛隊派遣が減少した理由としては、武力行使色を強め、国際平和協力法の条件を満たさない国連PKOが増加したことも指摘できる。

[22] SIPRI-Milex-data-1949-2022.xlsx (live.com)

[23] 【外交文書 公開】政府 天安門事件当日 中国と融和方針決める | 注目記事 | NHK政治マガジン

[24] 中国が警戒する男、大使になる | NHK政治マガジン
外務省: 「戦略的互恵関係」の包括的推進に関する日中共同声明 (mofa.go.jp)

[25] nss-j.pdf (cas.go.jp)

[26] NSS2013には、集団的自衛権の行使容認を可能にする安保法制の制定意欲を直接書いた記述はない。敢えて探せば、「国家安全保障を十全に確保するためには、外交力及び防衛力を中心とする能力の強化に加え、これらの能力が効果的に発揮されることを支える国内基盤を整備することが不可欠である」という一文がそれにあたる。

[27] 防衛費が初の6兆円超…異例の補正予算、新規装備を購入 7年で1兆円増:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

[28] 自由民主党政務調査会・国防部会 提言・新防衛計画の大綱について -国家の平和・独立と国民の安全・安心確保の更なる進展- (jimin.jp)

[29] 敵基地攻撃能力(反撃能力)保有論の問題点については以下参照。» 「敵基地攻撃能力」論議の真実 Alternative Viewpoint 第43号|一般財団法人 東アジア共同体研究所 (eaci.or.jp)

[30] オバマ政権は2010年になって「リバランス(アジア太平洋地域の重視)」方針を表明した。ただし、中東方面からの撤退には時間がかかり、米軍がアフガニスタンから完全撤退したのはバイデン政権下の2021年8月だった。

[31] 有償援助(FMS)調達の概要と課題 (ndl.go.jp)

[32] 野田内閣による尖閣国有化は、日本側が対中戦略を意図的に変えたために起きたわけではない。基本的には、当時の石原都知事が尖閣購入計画を阻止するための苦肉の策という側面が強かった。

[33] 日中関係の改善に向けた話合い|外務省 (mofa.go.jp)

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