東アジア共同体研究所

頼清徳演説と日中の認識ギャップ ~日本からでは見えない中国① Alternative Viewpoint 第65号

2024年6月13日

 

はじめに

先月、5月22日から6月1日までの間、中国(北京・上海・南京)へ単独出張し、中国の研究者たちと意見交換してきた。今回の出張で最も考えさせられたのは、同じ現象に対する日中の見方があまりに違っており、今の日本の見方を修正しなければ対中戦略が間違った方向に行きかねないということである。AVP本号と次号では、私が中国で見聞きし、深く考えさせられた日中の認識ギャップについて、政治分野(頼清徳台湾総統の就任演説)と経済分野(EV)から1点ずつ紹介する。

 

頼演説を「現状維持=穏当」と評価した日本

去る5月20日、台湾で頼清徳政権が発足し、頼新総統が就任演説を行った。[1] 多少なりとも国際関係に関心を持つ日本国民であれば、その大多数は頼演説を「穏健」で「正当」なものと受け止めていると思われる。
頼の就任演説を伝えた殆どの日本メディアは、「現状維持」をキーワードにして見出しを打った。例えば、当日のNHKは「台湾 頼清徳氏が新総統就任 “中国との関係 現状維持”と強調」[2]、読売新聞は「頼清徳氏が台湾総統就任、中台関係の『現状維持』を表明 『平和を追求するが幻想は抱かない』」[3]、TBSは「台湾・頼清徳新総統就任 演説で中国との関係『現状維持』訴える」[4] という具合である。舛添要一氏も22日に「台湾・頼清徳総統が就任演説で『独立志向』を封印し、蔡英文政権の『現状維持路線』を踏襲してみせた“2つの理由”」という解説記事をネットに掲載した。[5]

日本では、台湾側が「現状維持」という言葉を使えば、「独立を追求しない(急がない)」という意味に理解され、中国との関係を波立てるつもりはないという意志表明とみなされるのが一般的である。確かに、頼演説には「新政権は『四つの堅持』に基づき、へつらわず、高ぶらず、現状維持に取り組んでまいります。」という一文があった。[6]

公平を期すために言うと、メディア報道を本文まで全部読めば、「現状維持」以外の過激な部分にまったく触れていなかったわけではない。だが、その取扱いは極めて控えめだった。何より、普通の人がこの手のニュースを読むのは見出しだけである。日本人の多くが頼演説を〈現状維持=穏当〉と受け止めたのは当然だった。

 

頼演説の「二国論」に驚愕した中国

私は頼演説から2日後の5月22日に中国へ渡り、翌23日から中国人研究者たちとの面談に臨んだ。彼らは例外なく、頼演説が極めて挑発的だったと述べ、驚き、呆れ、怒っていた。

私は中国人の言い分をすべて頭から信じるほどお人好しではない。だが、頼演説の全文を読んでみると、頼清徳の総統就任演説は同じ民進党出身の総統だった蔡英文(2016年5月~2024年5月)や陳水扁(2000年5月~2008年5月)の発言よりも遥かに独立色を強く打ち出したものだと言わざるを得ない。
頼演説が独立色の強い〈挑発的〉なものだったと言える理由について、私の会った中国人研究者たちは十に迫る根拠を示した。[7] 紙幅の都合で一々紹介することはしないが、本稿では中国と台湾の呼称という観点に絞り、頼演説に見られる独立志向の強さを解説しておく。[8]

台湾総統の演説では、独立志向の強さを計る〈リトマス試験紙〉として、「中国と台湾をどう呼ぶか」が注目を集める。例えば、2020年の就任演説で当時の蔡英文総統は中国(北京政府)のことを中国語で「対岸」と呼んだ。「中国」ではなく「対岸」なら、北京政府と同じ意味ではなくても「1つの中国」を認めているというニュアンスが出る。[9] 逆に、台湾が自らのことを「台湾」ではなく「中華民国」と呼べば、(中国とは別の)国というイメージが含意される。4年前の蔡英文の就任演説では、「中華民国」という呼称が7回使われた。

5月20日に行われた就任演説で、頼は中国(北京政府)のことを「対岸」とも「大陸」とも呼ばなかった。7回にわたって「中国」という呼称を使い、1度は「中華人民共和国」という言葉まで用いた。「中華民国」は12回使われた。しかも、「中華民国と中華人民共和国は互いに隷属していない」という言い方だったから、2つの国家が別個に存在する(=二国論)という意味合いは限りなく強まった。「1つの中国」からの決別宣言と中国側が受け止めても無理はない。

 

意表を突かれた中国

どうやら中国側は、事前に「頼の演説はそれほど挑発的なものにはならない」という情報を得ていたフシがある。安心していたところへ実際の演説が過激だったため、中国の受けた衝撃は一層大きなものになった可能性がある。

中国政府(共産党)は頼の就任演説について、台湾の民進党筋と米国政府筋から事前情報を得ていたと言う。[10] それによると、二国論につながるような過激な内容は見当たらず、米国政府の関係者からも内々に「頼演説について心配は無用」と聞かされていたらしい。ところが、蓋を開けてみたら、頼の演説は想定していた最悪ラインを遥かに超える内容だった。[11]

実際の頼演説に意表を突かれたのは中国政府だけではない。米国の知中派を含め、「総統選と同時に行われた立法院(=日本の国会に相当)選挙で与党・民進党が過半数を割ったため、頼は慎重な政権運営を余儀なくされる」「総統再選を目指すためには住民の民生向上に注力する必要があり、対中関係を悪化させることは避ける必要がある」という見方が支配的だった。[12] 日本のメディアもまた然り。頼の就任演説が実質的には現状変更を強く志向するものになると事前に予想した者など、ほとんどいなかったはずだ。

 

【コラム】 「現状維持」の三者三様

本稿では台湾情勢を巡って「現状維持」という言葉を注釈抜きで当たり前のように使っている。だが実は、「現状維持」という言葉の意味についても、日本と中国、そして頼清徳総統の間にはギャップが存在する。

日本で現状維持と言えば、既に述べたとおり、「独立を(性急に)追求しない」ことと受け止められ、中国をあまり刺激しない穏健なスタンスと捉える向きが多い。しかし、中国で「現状維持」という言葉を使う時は少しばかり注意が必要だ。政府に近い立場の研究者ほど、現状を分裂状態とみなし、「現状維持=分裂の固定化」とみなす。

ややこしいことに、頼清徳の場合はまた意味が違う。頼は近年、「台湾は既に独立しており、独立を改めて宣言する必要はない」と繰り返し発言していた。つまり、頼にとって現状維持は〈独立宣言をしないだけで事実上の独立状態を続ける〉ことを意味する。頼はかつて急進的に台湾独立を主張していたことから、現在の頼の主張を〈軟化した〉と説明する人が日米では多い。だが、中国側にとって「台湾が事実上独立している」という主張は絶対に容認できない。[13]

 

 

日本で頼演説がソフトに受け止められた理由

頼清徳は5月20日に幾種類もの就任演説を行ったわけではない。しかし、そのたった一つの演説の受け止め方が日本と中国では真逆と言ってよいほどに異なった。今回に関しては、頼演説が現状維持を強調した穏健なものだったという評価は、さすがに客観性に欠けている。頼清徳が蔡英文よりも独立志向(または二国論)を強調したことは演説の文面から否定できないからだ。なぜ、日本側の見方はこうなったのか? 幾つかの理由が考えられる。

第1は、先入観の影響である。前述のとおり、メディアや研究者の多くは「総統選のあたりから頼は独立色を弱めた」という先入観に囚われていた。そこへ頼が演説の中で「現状維持」という予想されたキーワードを使ったものだから、それが見出しに取られ、「現状維持=穏健」という筋書きが独り歩きした。

第2は、メディアや知識人の自主規制。中国を真面目に研究している研究者やマスコミの関係者が頼演説を一目見れば、従来のラインから大幅に踏み出していることは一目瞭然だったはずである。にもかかわらず、そのことが日本の言論空間で発信されることはあまりなかった。今日の日本では、「民主主義の台湾は何も悪いことはしていないのに権威主義国家の中国から圧迫されている」という図式が〈政治的に正しい〉見方である。「頼は言葉では現状維持を唱えながら実態としては独立を追求しており、それが中国の反発を招いた」という解説はその見方に合致しない。だから、メディアや研究者の多くは、客観的な観察内容を口に出すことをためらったのではないか。同様の現象はウクライナ戦争が起きた時も見られた。[14]

第3に、〈思考枠組みの固定化〉によって客観的な観察を行うこと自体ができなくなった面がある。例えば、「中国=専制=悪、台湾=民主主義=善」という固定化された思考の枠組みの下では、「頼清徳の就任演説の中身がもっと抑制的なものだったとしても、中国は新総統の就任に合わせて軍事演習を行い、台湾に圧力を加えていたはず。だから、頼演説の中身に注意を払うことに大した意味はない」という見方が生まれる。「頼演説を批判する中国の言い分を広めることは中国を利することになる。そんなことをする輩は親中派の危険人物だ」という言いがかりのような見方すら、出てきてもおかしくない。

 

おわりに

頼清徳総統が5月20日に示した過激な姿勢が、就任演説という〈晴れの舞台〉での気負いによるものであれば、頼の挑発的な言辞は単発的なものに終わるかもしれない。しかし、そうではないという兆候が既に見られる。去る6月4日に開票された総選挙の結果を受けて3期目に入ったインドのモディ首相に対し、頼清徳はX(旧Twitter)で祝意を送り、モディも台湾との関係強化を楽しみにしていると返信した。中国外交部がインド側に抗議したところ、台湾の外交部は「他国(=中国のことを指す)は口出しをする権利はない」「中華民国台湾は主権独立国家であり、中華人民共和国とは互いに隷属しない」と述べて反発した。[15] これを見る限り、頼だけでなく台湾当局も今後も「二国論」を強く示唆する表現を使い続けるつもりのようだ。そうなれば、中国も黙ってはいられまい。しかも、陳水扁の時は米国(ブッシュ政権)が台湾の独立志向を抑え込んだが、バイデン政権はそこまで強くグリップする気がないように見える。台湾海峡を巡る緊張と対立がこれまで予想していなかった速度でエスカレートする可能性の出てきたことについて、我々は警戒感を持つべきである。

日本の国益を考えれば、中台の武力衝突は絶対に起こしてはならない。そのためには、中国と台湾が統一問題を平和的に解決できるまで、中国と台湾の双方が現状変更(=武力統一や台湾独立に類する動き)を試みないようにすることが極めて重要だ。加えて、日中共同声明(1972年)で日本政府が表明した「『台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部である』という中国政府の立場を『十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」という観点からも、頼演説の二国論には釘をさすべきであろう。ところが、今日のように「民主主義(=善)対 権威主義(=悪)」という価値観のレンズで物事を見ていると、日本は知らず知らずのうちに台湾独立を支援・奨励する方向に迷い込みかねない。これは実に危険極まりない。中国側の視点を含め、中台関係は複眼的に観察しなければならない。

 

 

 

[1] 「台湾を民主主義世界のMVPに」…頼清徳・台湾総統の就任演説全文 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

[2] 台湾 頼清徳氏が新総統就任 “中国との関係 現状維持”と強調 | NHK | 台湾

[3] 頼清徳氏が台湾総統就任、中台関係の「現状維持」を表明「平和を追求するが幻想は抱かない」 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

[4] 台湾・頼清徳新総統就任 演説で中国との関係「現状維持」訴える|TBS NEWS DIG (youtube.com)

[5] 台湾・頼清徳総統が就任演説で「独立志向」を封印し、蔡英文政権の「現状維持路線」を踏襲してみせた“2つの理由”(舛添 要一) | 現代ビジネス | 講談社(1/4) (gendai.media)

[6] 「四つの堅持」とは、蔡英文前総統が述べた「自由で民主的な憲政体制を堅持」、「中華民国と中華人民共和国が互いに隷属していないことを堅持」、「主権の侵犯と併呑は許さないことを堅持」、「中華民国台湾の前途はすべての国民の意思に従うことを堅持」のことを指す。

[7] 頼清徳演説が中国にとって看過できないものだったことを日本語で説明した記事としては、例えば以下。(ただし、台湾問題に関する論者の意見に私が同意しているわけではない。) 台湾・頼清徳の総統就任演説がすごかった!中国を激怒させた「新二国論」、日本や米国に台湾の民主主義を守る覚悟は(1/7) | JBpress (ジェイビープレス) (ismedia.jp) 中国は、頼清徳・台湾総統就任演説の「ここ」にこれほどまで激しく反発した(石 平) | 現代ビジネス | 講談社(1/4) (gendai.media)

[8] この解説については、台湾ユダヤ人協会の議長も務める米国人アナリスト兼コンサルタントのロス・ファインゴールドが外交雑誌『THE DIPLOMAT』に5月10日付に発表した「頼清徳の総統就任演説:注目すべき5つのこと」という小論文を一部参考にした。 Lai Ching-te’s Inaugural Address: 5 Things To Watch – The Diplomat

[9] ただし、ファインゴールドによれば、蔡演説における「対岸」は「China(中国)」と英訳されていた。精一杯の抵抗だったのであろう。

[10] ただし、現時点で真偽のほどを確認する術はない。その点は割り引いてお読みいただきたい。

[11] 米国が中国を欺いたのか、米国も中国同様、頼に一杯食わされたのかについては、判断がつかない。頼演説を受け、中国が5月23・24日に軍事演習を行っても、米側は空母を派遣する等の目立った対応をとらなかった。米国は「頼演説の中身を考えれば、中国が2日程度の軍事演習を行うのは仕方がない」と考えた可能性もある。

[12] 例えば、以下。 Beware forecasts of doom for Taiwan under Lai | Brookings

[13] 今回の私の出張でも、中国共産党に近い研究者ほど、私が「日本では『現状維持』は穏健な姿勢とみなされる」と説明するたびに顔をしかめ、中には怒り出す人もいた。

[14] 「ロシア=専制=悪、ウクライナ=民主主義=善」という構図で伝えることが政治的に正しいとみなされ、それ以外の見方――例えば、ロシア側がNATO拡大に対して抱いた不安を指摘すること等――をメディアや学会で表明することには自主規制の空気が漂った。

[15] 外交部:印モディ首相の台湾重視発言への中国反発に「他国は口出し控えよ」 – ニュース – Rti 台湾国際放送

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